石垣山一夜城
小田原城に立て籠もる小田原北条氏を攻めるため、箱根火山外周の尾根上に豊臣秀吉が築いた総石垣の城で、国の指定史跡となっています。石垣は小田原城とは異なり、自然石や矢穴のない荒割りした安山岩を用いた野面積みで造られており、井戸曲輪や南曲輪の石垣の様子は見事です。また、ここからは、小田原の市街地が広がる足柄平野から大磯丘陵、そしてその境界に位置すると考えられている国府津―松田断層の地形を一望できます。
地表面は数十枚のプレートという岩板でおおわれています。一夜城からプレート境界を見る
その境界の1つが、この付近を通っています。一夜城は箱根火山にあり、フィリピン海プレートに属します。大磯丘陵は北米プレートに属します。
両者の間にプレートの境界があり、大磯丘陵側が隆起しています。アジアのプレート分布
小田原合戦攻防図
天正18年(1590)4月、関東最大の勢力を誇る戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める関白豊臣秀吉率いる諸大名の大軍に包囲される。
北条氏VS豊臣氏の小田原合戦
~天下分け目(プレート境界)の戦い~そして、戦国時代は終わる
この合戦の過程で、関東ばかりでなく伊達政宗ら東北の諸将も秀吉に臣従する。この結果、天下統一の事業が達成され、小田原北条氏の滅亡とともに戦国時代も終わりを告げた。
秀吉、石垣山一夜城築城
小田原城の攻略に当たり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで臨む秀吉は、壮大な石垣山一夜城を築き、本営を湯本早雲寺(箱根町)から移動。淀殿や参陣諸将の女房衆を召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。
小田原城を包囲する戦国の英雄たち
豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。
徳川家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条氏の領国に侵攻。
長宗我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。
総構により中世最大の規模を誇った小田原城には、約6万とも伝わる人々が籠りました。
小田原城で北条氏は、豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、織田信雄・蒲生氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜多秀家・池田輝政・堀秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3か月余りに及ぶ攻防戦を展開する。中世最大規模の城、小田原城出現
小田原北条氏は、臣従を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、総動員態勢を整える。特に、小田原城に城下の街ごと囲む全長9Kmに及ぶ長大な総構を構築し、決戦に備えていた。
結果的に交渉は決裂。小田原北条氏は、国境線を固めるとともに小田原城に主力を投入、さらに領内100か所以上に及ぶ支城の防備を固めて防衛体制を整えた。小田原北条氏の降伏
小田原北条方は、各地の諸城に籠って防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、主力の籠る小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され、次第に孤立していった。同年7月に至り北条氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに、籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出る。この行動に秀吉は感嘆し、氏直の父氏政とその弟氏照には切腹を命ずるが、氏直の命は助け、高野山への追放とした。ここに戦国大名小田原北条氏は滅亡した。